生いたち

 両親や誕生についてはジュウベイの項で書きましたので途中からはじめましょう。

 ジュウベイにとってそうであったように、アヤメの人生も家族で過ごした五歳の誕生日までの日々は幸せでした。兄はいつねだっても遊んでくれましたし、父や母も手ずからいろいろな技術や学問を教えてくれました。物心ついたアヤメにとって、それは、いずれ自分が兄や父母と同じ世界へ行けることの約束のようなもので、この時期まで彼女は疎外感など持ったことはありませんでした。

 そしてアヤメ五歳の六月。雨の日に母、フジは五年ぶりに隠密の仕事へと戻ってゆきました。


武士はいろんな務めをはたさなきゃいけない。
俺たち武士の子供の務めは親が安心して出かけられるよう、黙って見送ることだ。
ジュウベイは「俺たち」のところに力を入れて言ってくれたそうです。

 アヤメは母としばらく会えなくなるのがとても嫌だったのですが、父と兄が平静を保っているので、自分もそれに従うべきなんだと黙って出て行く母を見送ったのです。アヤメが誕まれてはじめて味わう疎外感でした。

 その翌日から、アヤメは家のならわしどおり、神陰流の祖、セキシュウサイの家に内弟子に入り、剣の修行を本格的にはじめることになりました。ここで腕を上げれば父母や兄と再び同じ世界に行ける。そう考えたアヤメのがんばりは大したものでしたが


やたらなまけたがる師匠とあきれるアヤメとサツキ。
後方の巨大な人はセキシュウサイの女房おタカさん。
ジュウベイが言うには「自力で学べることを学んだ後でないと
あの人はなにも教えてくれないよ」とのことです。

 師匠のセキシュウサイはちーともがんばらない人だったのです。結局、アヤメは同期の内弟子サツキと二人で自習ばかりする羽目になりました。

 実はサツキはアヤメと一日違いの5月5日誕まれで、やはりセキシュウサイが名付け親だったのです。どうやらどっちがアヤメでどっちがサツキでも良かったらしく、幼女二人は師のアバウトさを思い知り、大きな溜息をつきました。

 そして三月後の九月。再び雨の日でした。母フジが島原で消息を絶ったとの報が入り、父タジマが取り急ぎ島原に向かうことになりました。今度は必死で泣きすがるアヤメでしたが、タジマは母を迎えに行くのだからここで待っていよ、と優しくアヤメをさとし、雨の中に出ていきました。

 その年の冬、タジマがやはり消息を絶ったとの知らせが神陰流の道場に届いたのもやはり雨の日でした。

 アヤメは雨の中に飛び出してゆき、どこへ行って良いかもわからず、父母を呼び続け、ジュウベイが見つけたときには呆然と冬の雨の中に座っていたそうです。


雨の中の兄妹。

 声をかけてくれる人々全てがアヤメの目には入らなかったようで、
兄に抱かれて道場に戻る途中もただ呆然としていたそうです。

 当然のごとく、重い風邪をひき、五日後にやっと床をはい出したアヤメを待っていたのはジュウベイの手紙でした。ジュウベイは前日の夜、アヤメの回復を確認すると、セキシュウサイにアヤメをたのむ旨の手紙を残し、島原へとたっていたのでした。アヤメが事態を理解できなくて(と、いうかしたくなくて)呆然としていると、セキシュウサイが急におひつを持ってあらわれました。


「見送るのが務めなんて言ってもねぇ。難しすぎてできない務めもあるよねー。
そんな時はね、やめちゃってもいいんだよ」
 武士からぬセキシュウサイのお言葉です。隠鬼楽斎も同じことを言ってましたね。

 アヤメはまだ少し残る熱を振り切って、師匠とともに旅立ちました。その日は小春日和の晴天だったそうです。

 旅は偉大な剣豪であり、幕府にも顔のきくセキシュウサイのおかげで時として非情にスムーズに進みました。大抵の関所はフリーパスなうえ、交通機関(といっても駕篭とか馬ですが)も使いたおし。


問屋場、自営有が誇る新幹線こだま、ひかり兄弟。うしろにいるのは奉行所の同心、江糸さん。

 それによって生じる問題などもセキシュウサイの手に持つ小枝で全て片づきました。


箱根山雲助生活協同組合のみなさん(要は山賊ですな)とセキシュウサイ子弟。
おもちゃみたいな爺さんですが、この時代においてはムサシと並ぶ超剣豪なのです。

 ただ、時として行程が異常に進まなくなるのも同一人物のしわざでしたが。

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