「永遠の春にたゆとうもの」

 知的生命体とは何であろうかという質問に
主観と客観の2種類の時間を持つものだと答
えた奴がいる。そういった意味では、エスケ
イド記念医療センターの地下へ降りるエレベ
ーターの中で秒速でやつれてゆくジェナ・ハ
ン女史はたしかに知的なのだろう。一緒に乗
り合わせている俺がさっさと消えてほしい口
の中のドブ水コーヒーの味に久遠の時を感じ
てるってのにだ。・・・ちなみに俺たちが共
有しているところの客観時間ではこのハコの
中に入ってから5分とたっていない。
 
 エレベーターの体感速度なんてものを正確
に把握できるほど俺はGに対してするどい感
覚はもっていない。普段こういう状況に陥っ
た時には点灯する階数表示なんてぇものを眺
めてヒマをつぶすんだが、どうやら直通便ら
しい我等のハコにそんな気のきいたものは付
いていない。
 ゆえにどれほど俺たちが便宜上の地下にも
ぐり込んだのかはわからないが、俺が停止の
Gを感じたときには、一階と屋上にしか停止
しない通常速度のエレベーターで40階建て
のビルを往復したほどの時間が経過していた。
 「ここで乗り換えだってんなら駅弁くらい
買っていきたいんだがな」
 「残念ですが、その手のインフラ整備につ
いてはここは絶望的です」
 ジェナは冗談にしては重みのある声で言う。
多分、普段から弁当を買うにも一々40階建
てビル往復分の手間をかけんといかんのだろ
う。
 「希望があるとすれば、ここが終点だとい
うことだけですか」
 「希望ってのはパンドラの昔から気休めに
すぎないもんだが、今回は上出来だ。怠ける
のは好きだが、退屈はきらいなんだよ」
 「贅沢な方ですね」
 「先祖はナイルの神だからな」
 エレベーターのドアが下卑た金属音をたて
て開く。住人の精神衛生なんぞに気を使うつ
もりはさらさらないらしい。弁当屋がないわ
けだ。
 だが、俺にとってはそう悪い場所でもなか
った。エレベーターから奥へとつづく廊下の
途中で、モードレイが笑ってるなんてぇ構図
がないだけでもナイルのご先祖に感謝の供物
を捧げたっていい。それに杜撰なものには付
け込む隙も多いことだしな。
 
 高硬度樹脂製の建材で固められた廊下は奥
へとまっすぐに続いている。50mほど先に
終点らしき壁が見えるが、そこにはドアらし
いものはなく、だからといって左右どちらか
に曲がる道があるなんてこともない。
 見とおしてみると、ドアらしいものは右側
面の中間あたりにひとつあるだけ。つまり、
そこから先の廊下は使いにくい物置以上の存
在ではないことになる。
 「つきあたりの壁、調べといていいかね?」
 「・・・・なにもありませんよ? 」
 「いや、開けようと思えば穴が開くかなと
思ってな」
 「極秘のセクションですよ、簡単に侵入で
きないように出来ているはずです」
 「あんたら基準では、だろ? 」
 俺は目的地らしいドアを通りすぎ、廊下側
面の壁に眼を走らせつつ、突き当たりに向か
って歩く。こういう時ワニの眼は非常に便利
にできている。左右の壁を同時に見ても眼は
回らない。
 「壁の外になにがあるか知ってるかい? 」
 「・・・いいえ、社外になるのか、それと
も他の極秘セクションがあるのか、それすら
わかりません。 私が把握しているのはここ
だけです」
 「・・・つまり、突然ホームシックになっ
ても壁ブチぬいて家に帰るわけにゃいかない
ってことか」
 探偵ってのはわりと頻繁にホームシックに
なる。10をいくつか越える銃口が自分に向
いてる時や、解体不能の爆弾とドアの開かな
い部屋で同居しているのに気づいた時など、
ささいなきっかけで俺たちはおうちが恋しく
なる。帰り道が遠いのは困りものだ。おそら
くは来た道を戻ることは不可能だろうからな。
 
 「・・・まぁ、いい。 問題は壁の枚数だ
けだからな」
 「え? 」
 「いや、気にしなくていい。 俺ン家まで
壁何枚分の手間がかかるのかってことで、そ
いつぁオレの思案事だ。 あんたらはその過
程でてめぇン家の他のインチキセクションの
どれだけに迷惑がかかるのかの心配でもして
りゃいい」
 ジェナが息を呑む。つまりは俺の帰宅の邪
魔をすると、結果はどうあれ面倒が拡大する
のは確実だぞ、という俺のメッセージを彼女
は正しく理解したということだ。もっともこ
こにはいないこの件においての真の全責任者
がどう思ったかはわからない。その誰かにジ
ェナよりは理解力があることを希望するが、
上の人間に寄せた期待はかなわないことが多
いからな。修羅場をやむを得ないだろう。
 
 「さて、それじゃ親愛なるアルフレッドに
面会を願おうか」
 「データは引渡してもらえるのですね」
 「アルフレッド・レーテマン次第だな。俺
のクライアントは奴さんだ」
 ジェナは壁面にたった一つ設けられた扉の
コントロールボードにアクセスをする。
 ややあって扉はエレベータと同種の無粋な
わめき声を上げて開き、俺とジェナを内部へ
と導いた。いいね、杜撰万歳。
 
 扉の内部は三龍街のカラオケ屋が阿呆の詰
め合わせを造るために用意しているパーティ
ルームとやらよりいくらか広い程度の床面積
を持つ部屋だった。
 勿論、床以外の全ての壁面を埋めている機
器がどれほどの奥行きを持っているのかはわ
からない。まぁどうせ中に詰まってるのはカ
ラオケ屋の阿呆と大差ないクソッタレな物体
なんだろうが、俺にその実体がわかるはずも
ない。 俺と顔見知りのクソッタレは部屋の
ほぼ中央のベッドでグースカ寝息を立ててい
るレーテマンだけだ。
 「起こすことは出来るのかい? 」
 「・・・すぐというわけには・・・」
 「じゃ、担いでいく」
 俺がベッドに近づこうとするのをジェナが
慌てて制止する。
 「今は治療中ですので、動かすことは危険
です。覚醒させますので」
 「すぐには無理なんじゃなかったのかい」
 「・・・す、数分はかかるという意味です」
 「すまねぇな。ワニの時間基準はあんたら
ほど慌しくねぇもんでな」
 ジェナがレーテマンのベッドの横のパネル
をポチポチ叩き始めたのをきっかけに、俺は
改めて部屋の中を見まわしてみる。
 壁にはめ込まれた機械類は門外漢の俺には
やはり正体不明の何かにすぎない。だが、人
類という連中には妙な悪癖があって、自分自
身や自分の存在理由なんてものを象徴する何
かを目につく場所に置いておかないと落ちつ
かないものらしい。
 この部屋にもそれはあった。
 
 人間の脳の構造を克明に摸した3DCGの
ホログラムポスター、神経細胞の拡大図等、
周囲の得体のしれない機械の記憶部位のどこ
かに確実に収められている情報がわざわざ印
刷媒体というアナログな形で、それをはるか
に上回るであろう高密度の情報を秘めた機械
の上に貼りつけられている。
 ここで何が行われているか、その入り口く
らいはそれで十分推察できる。
 脳の研究。俺に理解できる部屋の調度だけ
でもほぼ間違いはない。
 ひょっとすると音楽関係のスタジオかも、
なんて要因もないわけじゃないが、それは壁
に作りつけのデスクの上で、クリスタルケー
スの中に大切に保管されているオルゴールの
音盤一枚だけにすぎなかった。
 もっとも、俺の目を一番引きつけてくれた
のもそのわずかな要因だったんだが。
 
 俺は音盤から目を離し、この部屋で行われ
ているだろう本筋に話を戻すことにした。
 「人の脳なんてもんをいじくりゃ齟齬も出
るだろう。レーテマンに発症したのが幻聴だ
けですんだのはめっけもんだったな」
 「処置をしたのは異常部位だけです。他に
影響がでることは考えられません」
 「だが、その処置はおまけ付きだった。処
置に関わったカンマハド・ホプシスの音の記
憶なんてぇレアもんだ」
 ジェナが手を止めて振りかえる。
 
 「・・・データの中身は見ていないとおっ
しゃいましたよね? 」
 「見ちゃいないよ。見なくても知ることは
できる。探偵ってのはそういう仕事なんだ」
 「あくまで、推測ということですね」
 「まぁな。だが立証なんてもんは後から何
とでもなる。でっちあげなんてなぁ真実の前
にゃ塵紙以下の代物だが、出しようがない真
実になら取って代わるだけの力はある。何割
かでも真実に迫ってるもんなら尚更な」
 「さぁ? あなたのあてずっぽうがどこま
で真実に迫っているのか、判断できるのは我
々だけでしょう? 」
 ジェナは平静を装ってるつもりらしいが、
残念ながら彼女にはあまり演技の才能はない。
 「ああ、どこまで真実に迫っているかで迷
惑を被るのもあんたたちだ。場合によっちゃ
俺はでっちあげすらする必要がない。
 先天的難聴を抱えた患者にエスケイドは脳
に処置を行うことで治療に成功した、コレだ
けでいい。
 あんたらは何でだか秘密裏に開発を行って
いる治療法だか何だかを、躍起になって治療
法を捜してる患者連中に探られることになる」
 「秘密裏はあくまで秘密裏ですよ。だれに
探られてもそれを表に出すことはあり得ませ
ん。もちろんあなたにもね」
 「その理屈が通らない相手もいる。エスケ
イドの別セクションの大物スポンサーとかな。
 そいつらの誰かが身内に患者を抱えてない
って言い切れるかね? 」
 ジェナの手が止まった。
 
 そりゃそうだろう。こういうでかい組織で
は何よりも枠組が重要視される。たとえば自
分の子供の難聴治療のためにエスケイドの別
セクションに投資をしていた金持ちがいたと
しよう。その人物がジェナ・ハンのチームが
何らかの方法で先天的難聴の治療に成功した
と知れば、当然その治療法を行えとねじ込ん
で来る。彼が金を出しているのはエスケイド
そのものであって、エスケイドの一セクショ
ンではない。エスケイド内の技術なら使えて
当たり前なんだからな。
 「あんたらがタダ治療法なんてものを開発
してるんなら、それはそれで手の打ち様もあ
るだろうさ。
 でも、ソレはねぇよな。人一人死んでるわ
けだし、昔やった人体実験でわずかな齟齬が
あったなんて程度の話じゃねぇことは探偵業
じゃなくたってわかる」
 「・・・脅迫ですか? ・・・条件は・・
・・・・」
 「俺はタカリ屋じゃねぇ。そちらのクライ
アントに事の真実が伝われば仕事は終わりだ。
 ただ、さっきも言ったように人一人が殺さ
れる真実だ。知ったらタダじゃ済まねぇぜ。
 どうするよ、Mr・レーテマン」
 俺の言葉にジェナが振りかえる。そこには
上体を起こしたレーテマンがいた。
 「・・・聞こえてるんです・・・今も」
 
 知るか知らないかに関わらず、それはレー
テマンの中にある。そしてそれはおりにふれ、
レーテマンに自分の存在を伝えて来るのだ。
 身の安全と引き換えに忘れてしまえるもの
ではない。
 「治療は行いますから」
 「・・・できるのかい? 」
 俺はブラフのディスクを取り出す。
 「ゴロツキのワニを心臓部にまで呼び込ん
だのは、是が非でもカンマハド・ホプシスの
残したものが必要だった。
 ゴロツキあしらいに慣れていないあんたが
敢えて矢面に立ったのはディスクの中身の真
偽を確認できるのがあんただけだから。
 カンマハドが持っていた何かはこのセクシ
ョンが行っていた研究にとってキモであるの
か、或いは命取りであるのか、エスケイドが
監視を続けていたはずのレーテマンが未だに
治療をうけることなく、俺のオフィスに現わ
れたところを見ればどちらかは明白・・・だ
ろ? 」
 ジェナがうなづく。
 「ですから、そのためにもデータを引き渡
していただきたいんです」
 「交換条件を決めるのはクライアントだ」
 俺とジェナはレーテマンを見る。初対面の
時には微塵もなかった影が奴の顔に降りてい
た。決意、いや決死と呼ぶべきものだろうか。
 
 「・・・私になにをしたのか、教えていた
だきたい」
 「・・・治療・・・」
 「どういう?」
 「・・・それは・・・」
 ジェナは口篭もる。この件について口外す
る権限は与えられていないのだろう。
 「ブレインコピーか」
 俺の呟きにジェナは少し肩を振るわせ、小
さくうなづく。
 「ブレインコピーって・・・そんなことが
出来るんですか? B・J」
 レーテマンが奴本来の懐かしいマヌケ口調
で言う。
 「出来ないからお前さんの頭で歌ってる奴
がいるんだろうさ」
 
 完璧というわけじゃないが、俺の読みは切
ってもいいカードにくらいは育っているはず
だ。わざわざ相手の懐深くもぐりこんだ甲斐
は十分にあった。手元にゃなかった最後の切
り札もここに来たことで実物になったことだ
しな。ここらが勝負どころだろう。
 難聴の治療の結果、他人の記憶を持ってし
まった患者。それを追っているセクションが
脳を扱ってるとなれば、当面ここまでは間違
いなかろう。そしてこれ以上は今回のビジネ
スの場合、必要はない。
 俺はここに至って最後の一枚を除く全ての
カードを開くことにしたのだ。
 
 「おそらくは治療に当たったカンマハド・
ホプシスが、自分の脳の正常部位の状況を何
らかの方法でお前さんの異常部位にコピーし
た。その時に思いもしなかったこととして奴
の音の記憶なんてものがいっしょにコピーさ
れていた。
 人の脳が持ってるデータだか何だかを他人
に移植できるのかどうか、その一つの実証ケ
ースがお前さんだ。
 わずかな聴覚の障害部分に限定した処理で
もそこまでのバグが出てる。実用レベルの成
功を収めているとは言い難い。
 おそらくはお前さんのオンチも二人の人間
の音に関する処理機構が食い違って齟齬を起
こしてるせいじゃねぇか、ってとこでどうだ
い? 6割くらいは真実に近いあてずっぽう
だと思うんだが? ジェナ先生」
 「・・・ふ、ふふ、Mr・B・J? ミス
ターレーテマンの仕事が終わったら私と契約
していただきたいですね。
 でも、推察なんですね? 」
 「そう、推察。あてずっぽうだ。だが、こ
れで満足しちゃくんねぇか? レーテマン。
 もちろん、あんたの方も、これで話は終わ
りってことで上と折り合いをつけてくれるっ
て条件つきだがな、ジェナ」
 ジェナはうなづく。
 「で、でもB・J、人が殺されているんで
すよ。私の中にある何かがそんな事件と繋が
る要因を抱えたままっでいるってのは・・・」
 「・・・Mr・レーテマン、宇宙の一口知
識として聞けよ。
 ブレインコピーは違法だ。人間のクローニ
ングと同じく、実際その技術は確立していな
いにも関わらず違法だ。
 その二つが揃えば客観的には不死の人間を
作る技術にもなるわけだからな。
 法なんざ超越した世界に住んでるジジィな
んかにとっちゃ、一般人なんざグロス単位で
殺したって手に入れたい代物だろうよ」
 俺はレーテマンの耳元で囁く。実際、クマ
屋の女主人が以前かかわった事件の関係者に
そういう若返りジジィがいたらしい。そいつ
がどうなったかについちゃ俺は知らない。あ
の女の話なんざ十分以上聞いていると命に関
わるからな。
 だが、我等がアルフレッドの症状を見るに
あまり健康には恵まれない運命であったろう
と思う。
 当然、その事件の概要なんざ跡形もなくも
み消されている。
 
 「手をひく条件のひとつはレーテマンの治
療だ。この男があんたらの研究対象でなくな
るくらいには完全にな」
 「それは・・・もちろん。でもそのために
はあなたの」
 「ああ、データはあんたの手に渡す」
 俺が言うと今度はレーテマンが俺の耳元で
囁く。
 「そんなもの、いつ手にいれたんです? 
まさか、得意のあてずっぽうじゃないでしょ
うね? それで治療うけるのは私なんですよ」
 この短いつきあいで我がクライアントはず
いぶんと成長したようだ。すくなくともワニ
の耳の位置と自分がひっかぶる不幸の予測方
法はわかるようになった。探偵料に授業料の
上乗せくらいやってもバチはあたるまい。
 「安心しろよ。データは本物だ。中身まで
は知らないが、たしかにジェナ女史がほしが
ったカンマハドの残せしものだ。
 ・・・手に入れたのはこの部屋に入ったと
きだがな」
 「は?」
 混乱するレーテマンを残して俺はジェナに
向き直る。
 「さて、データなんだが」
 しかし、それに応えたのはジェナではなく
部屋の床を転がる金属缶の音だった。転がり
ながら金属缶が噴出しているのは灰色のガス。
 そして壁面に埋められた機械にカムフラー
ジュされていた扉の奥で缶の持ち主、モード
レイ氏がエサを目の前にしたハイエナのよう
な顔でこちらを見ていた。