「ねじまきの魚」

 俺には終生、理解できないであろう話なの
だが、勤勉という奇妙な習性を持った生き物
がこの世には存在する。
 ここ一龍街はそういう珍獣どもの巣窟で、
当然平凡なるワニの身には甚だ居心地が悪い。
 アイヤー・オブ・ザ。ドラゴンの中枢と物
知らずどもから呼ばれるこの街は、勤勉ども
が愛してやまない太陽光(人工だけどな)に
終日照らされ、投身自殺の成功確率について
は400%を保証する馬鹿げた身長の建造物
群に埋め尽くされている。
 地球人類の大半から名前を知られている類
の団体は合法非合法を問わずこの街のどこか
に事務所をかまえ、ケツに辛子を塗られたニ
ワトリみたいに走り回る勤勉どもを血液がわ
りにして各々が有機的につながっている。
 エスケイド記念医療センターもそれらの血
液に満たされた器官の一つであった。
 
 俺は一龍のど真ん中にあるマンホールから
這い出すと、コートの泥を払い、周囲をゆっ
くりと見まわした。
 無数に動きまわる勤勉どもがちらりとこち
らを一瞥し、一瞬足を止めてはまた血液の任
務にもどってゆく。連中の正しい常識によれ
ば俺はこの街にはいるはずのない存在である。
 例え網膜に直立したワニが映っていようと
も、優先されるのは正しい常識、ここにいる
のはそういう人種なのだ。
 実際のところ、連中の常識ってのもそうは
間違っちゃいない。俺たちのようなバイオク
リーチャーがこの街に姿を現すことはほとん
どない。
 遊び場もなければ食っていい物もないから
だ。
 もちろん食えるものがないという意味では
ない。勤勉な血液を好む連中はいくらでもい
る。この街じゃ食ってはいけないという暗黙
の取り決めがあるだけだ。
 取り決めは捕食のアレコレに留まらず、一
定以上の温度の吐息や、コンクリに穴があく
よだれを吐かないなんて細かいものから、俺
とモードレイなんかが交わす挨拶等の禁止に
までおよんでいる。
 要するに、ここではアイヤーがアイヤーら
しい顔をすることそのものがタブーなのだ。
 俺がさっき、ここをアイヤーの中枢とかぬ
かす連中を物知らずと言ったのはそういう意
味なのである。
 もちろん、俺もそれを知っているからこそ、
のうのうと顔を出したわけなのだが。
 
 エスケイドがゲナー・ワンにどんな依頼を
押し付けたのかはしらないが、ゲナーにせよ
モードレイにせよ、この街におけるカースト
は俺たち人外と大差がない。いや、むしろ餌
を貰ってる分、街のルールに対しちゃ身動き
がしづらいだろう。
 俺は血流の一つにのっかるようにしてエス
ケイド記念医療センターの門をくぐる。
 このあたりの建物にしちゃささやかな造り
だ。窓らしい窓がないので何とも言えないが
地上20階がいいとこだろう。俺の立ってい
るエントランスの吹き抜けも3階分ほどとい
ったところだ。
 「失礼ですが、当ビルにはどういった御用
で? 」
 ガードマンらしいおっさんが声をかけて来
る。数は約8人。団子になって押し競饅頭な
んぞやってやがるもんで正確な数をわからな
い。どうやら全員がワニと話をするのには支
障がある民族の出身らしく、俺に声をかけた
のはおっさん団子の中でも最もローカースト
であろう貧相な奴だった。
 「カンマハド・ホプシスの件でな。いや、
アポはある」
 俺がそう答えた相手はおっさん団子の構成
員ではなく、自分の目の前に突然直立したワ
ニが現われでもしたかのような表情で俺を見
ている受けつけの姐ちゃんだった。いい表情
をする。この場でもっともタイムリーな表情
だ。
 「え・・あ・・ど、どなたと・・・」
 「いや、そのうち向こうからあんたに俺の
居場所を聞く内線がはいるはずだ。賭けたっ
ていいぜ」
 「な、内線が?」
 「ああ、かかってきたら向こう3ヶ月、ワ
ニ皮の製品は使わないと誓ってくれ。俺は2
階のラウンジにいる」
 俺は団子と表情芝居の才能豊かな姐ちゃん
を振り向きもせず、エスカレーターに乗る。
姐ちゃん側から、内線がなかったら向こう3
ヶ月わたしのハンドバッグになれ、なんて提
案が来たら厄介だからな。
 
 エスケイドの2階はだだっぴろいラウンジ
になっていて、クソ不味いコーヒーなんかが
飲めたりする。まったくコレがコーヒーだっ
てんならうちのねぐらの前のドブ川の水で魯
山人をもてなすことだってできる。ここに至
って俺は初めてズーフェイに仕掛けさせた爆
弾の起爆時間が気になりだした。
 下手に遅れれば、俺はドブ水以下の液体が
詰まったハンドバッグになりかねない。こん
な時の我が友ゴロワーズは新品のシガーケー
スごと下水道の闇に消えて久しい。精神衛生
のためにゃ缶ビールでも注文しとけばよかっ
たかもな。
 
 俺が受けつけの姐ちゃんに勝利したことを
告げにその女が現われたのは、ドブ水以下に
ギブアップした俺が勤務中に酒を飲むなんて
無作法を犯すその寸前だった。
 「Mr・B・J・クロコダイル?」
 「それ以外のワニとも取引してるのかい?
ここの会社は」
 「いえ、ワニとの取引はおそらくあなたが
最初で最後でしょう」
 女は向かいの椅子を引き、腰をおろす。
 何の処置も受けていないとすれば50過ぎ、
元は黒かったであろう髪には随分白い物がま
じり、どこか遠くを見るような眼をしている。
 やせていて、初老の女としちゃ背が高い以
外はこれといって特徴はない。もっともワニ
の目から見て、の話だが。
 「ジェナ・ハン。ここの研究室を一つ、預
かっています」
 「B・Jだ。商売はあんたとすればいいの
かな? それともまだ上がある話かい?」
 「私に一任されています」
 上はいるが出ては来ないということだ。
 「コロポリとゲナーともあんたが?」
 「私に一任されています」
 「ワッケンメッティもそうかね」
 「・・・・はい」
 最後の質問に対する返答には一瞬のためら
いがあった。
 当然だろう。
 ゲナー・ワンに並ぶ暗黒街の口入屋、ヴー
ン・ワッケンメッティは今回の件にはおそら
く関わりはない。俺のブラフだ。つまり、ジ
ェナ・ハン女史はこの件についての全権を握
ってはいない。さらに言うなら自分以外の関
係者の動きについても全てを把握してはいな
い。自分以外の誰かがこの件についてワッケ
ンメッティなる存在と交渉を持っているのか
どうか知る立場にはないし、それを自覚して
もいるのだ。
 そしておそらくはコロポリやゲナーとの交
渉役も彼女ではない。
 このアイヤー・オブ・ザ・ドラゴンで、少
しでも裏の世界と交渉があるものが、不倶戴
天の敵同士であるゲナーとワッケンメッティ
に同時に交渉を持ち込めてるなんて状況に、
はいと言うはずがないのだ。
 
 「レーテマンはどうだい」
 「質問の意味がわかりかねます。私はその
方を存知あげません」
 「時間と会話の無駄は省こう。俺はレーテ
マンが人名だとは言っていない」
 「・・・・・」
 「レーテマンは変わりないかい」
 「・・・彼の安全についてはあなたとの交
渉の如何に関わらず、当方の責任において保
証されるべきものだと考えております」
 「いや、まだ変えられてないのか、という
話なんだが」
 「・・・彼は安全です」
 「頭で聞こえてる、鳴らずの鐘・歌わずの
鳥ごと?」
 あまり上等とはいえないワニの聴覚にも引
っかかるほど、ジェナ・ハンが息を呑む音は
大きかった。どうやら余計なカードを切っち
まったらしいが、こちらの収穫もあったと見
るべきだろう。
 「・・・治療は問題なく行われねばなりま
せん。それが何年後であろうと」
 「で、あんたがゴロツキのワニとの交渉に
及んだわけか」
 ジェナ・ハンが再び大きく息を呑む。
 俺はまだ封を切っていないバドワイザーに
手を伸ばしかけ、止める。
 「どうぞ?」
 「いや、前の客の忘れ物だろう。俺はビジ
ネスで来ている。あんたもそうだろう?」
 「そうですね」
 「じゃ、お互いの目的を果たそうじゃない
か」
 俺は向こうに話を振る。俺の方じゃ相手の
目的とやらに添うカードは持っていないのだ。
ブタの札持ってコールをかけた以上、先方の
ダウンを待つしかない。
 「・・・では、お聞きします。アレはどの
ような形で見つけられたのですか」
 「・・・・形というと語弊があるが・・・」
 そら来た。向こうもおいそれとはカードを
切ってこない。こちらがコールをかけただけ
の手を持っていることを確信した上でないと
降りてはくれない。
 俺は懐からキャラメルくらいのサイズのデ
ィスクケースを出す。基本的にはパソコン用
の普及品コンパクト光学ディスクが入ってい
るケースだ。
 「俺が見つけたのは中身だけだがな」
 「・・・・カンマハドのパソコンは周辺の
設備を含めて全て持ち去られていたと聞いて
いますが」
 「パソコンはな。だが、ホプシスの愛用品
はいくらでも残っている。記憶媒体を内蔵し
てるものも含めてな。冷蔵庫、エアコン、ヒ
ゲソリにだってその手のものはついてる。デ
ータだけならどこにだって隠せる」
 ジェナ・ハンは三たび大きく息を吸った。
 俺のハッタリは成功したらしい。
 おそらく、ジェナ・ハン本人か、あるいは
その関係者はカンマハド・ホプシスの家で何
かを捜した経験があるんだろう。まぁ、この
際ホプシス邸強盗殺人との関係は保留として
おくが、何かを求めて家捜しをしたことには
間違いがあるまい。でなければ、どのような
形で見つけたなんぞという質問は出ちゃこな
いだろう。これはどんな形ですら見つけられ
なかった者だけがする質問だ。
 で、言葉尻にその手のシッポをニョロニョ
ロ付きだしてるジェナ・ハンは決してこの手
のことに熟達はしていない。そして関係者に
ジェナ以上の者もいない。いれば俺は今その
誰かと向き合っているだろう。
 つまり、ホプシス邸を調べた人間がド素人
である以上、もっともらしいことさえ言って
おけば、奴らの見落としをプロである俺が見
つけたって話は素人を騙すにゃ十分な信憑性
が出る。
 ヒゲソリの内蔵マイコンの記憶媒体にデー
タが隠せるのか、それは俺の知ったことじゃ
ない。
 ヒゲソリのROMまでは調べなかったなと
か、なにくれの改造をすればそのくらいは可
能なんじゃないかとかは相手のほうで勝手に
想像してくれる。口数を増やしたくないこと
においてはこっちも向こうも事情は変わらな
い。
 「・・・わかりました。では話をすすめま
しょう。譲っていただけるのですか?」
 「さてな、あんたらに譲るべきものなのか
どうか」
 「え? しかし、{ねじまきの魚}はもと
もと・・・」
 ジェナはそこで口をつぐんだ。余計なカー
ドを切ったのか、それとも。
 「俺も中身までは見ちゃいない。中にいる
のが魚だろうがワニだろうが、そんなこたぁ
どうでもいい」
 聞き覚えのない名詞はブラフの可能性があ
る。迂闊にうなづかないほうがいい。
 「ビジネスだと言ったはずだ。問題なのは
これはどこに売れば一番高く売れるか、なん
だ。元の持ち主らしいお宅に一番に持ち込ん
だのは俺なりの礼儀ってもんなんだよ」
 「・・・中身を見てはいない・・・と?」
 「そっちにとっても好都合だろ?」
 「それはそうですが・・・では、データの
タイトルに{ねじまきの魚}の文字は無いん
ですね」
 「データのタイトルは{カンマハドの残せ
しもの}だ。圧縮データなんで、解かないか
ぎり正体はわからない」
 「・・・わかりました。いくらでなら譲っ
ていただけます?」
 「安かぁないぞ。・・・そうさな、10万
AD(アイヤードル)に、アルフレッド・レ
−テマンの身柄をオマケしてもらおうかな」
 ジェナが軽く息を呑む。
 「たしかに・・・安くはないですね。私の
一存では決めかねます」
 「一任されてるんじゃなかったのかい」
 「・・・・・・」
 ジェナ・ハンは沈黙を守ったまま、俺から
眼をそらしている。俺は手を大きく上げ、
(軽く上げたいとこなのだが、種族的特性の
ためにそれでは目的を果たせない)ウェイト
レスの姐ちゃんにドブ水以下のおかわりを注
文する。
 そしてそれが運ばれてくる前にジェナは口
を開いた。
 「引き取りに来ていただくことになります
が」
 「とりあえず、礼を言おう」
 ドブ水以下で暇を潰さないで済む。
 「で? どこに行きゃいい?」
 「私どもの研究室に。このビルの地下にあ
ります」
 「今すぐでいいかい」
 ジェナ・ハンは慌てて首を振る。
 「そうか、んじゃこの話は無しにしよう」
 俺は席を立つ。ブラフの意味もあるが、見
なれたウェイトレスが盆の上に何やら不吉な
ものを乗せてこちらに来るのが見えたからだ。
 「・・・今すぐですか」
 「ゲナーを俺にけしかけたんならそれは解
るだろう? 女の部屋にアポなしで乗り込む
無作法は俺の流儀じゃないが、あんたがハウ
スクリーニングにゲナーを呼んだあとの部屋
に入るなんてなぁワニの体にゃあまり良くな
いんだ」
 実際、時間があればモードレイは口を付け
る寸前のロングローをあきらめてでも駆けつ
けるだろう。
 無論、俺がこのビルに顔を出した時点で奴
さんのコールベルが鳴っていた可能性はある
が、前述のとうりここ一龍街の表通りは不戦
条約地帯である。駆けつけたところで即仕掛
けるわけにもいかず、この先俺がどう動くか
解らない以上網の張りようもない。近所のバ
ーでドブ水以下のスコッチでもすすっている
のが精一杯だ。
 だが、俺が何時何時にエスケイドの地下に
出向くというなら話はちがう。
 地下(といっても便宜上の地面より下とい
う意味だが)はもう、それが堅気の建物と繋
がっているとしても俺たちのフィールドであ
る。便宜上の床一枚を越えればもう支配する
法律は切り替わるのだ。
 モードレイに仕掛けを楽しむ時間を与える
のは得策ではない。今動いておけば、場合に
よってはこちらが先んじて手を講じておくこ
とも出来ないではない。
 「・・・わかりました。・・・こちらへ」
 一代決心を行ったらしいジェナ・ハンが疲
弊しきった顔で立ちあがる。大丈夫かな。こ
の先、多少の修羅場は目にすることになるん
だが、まぁ人間いくつになっても勉強だと言
うし、知らない世界を垣間見て悶絶したとこ
ろでそれはそれでいい経験だと思ってもらお
う。責任の一端はおそらくゲナーを呼んだで
あろうあんた方にもあるんだから。
 
 俺はひたすらお綺麗であることだけをコン
セプトに設計されたエスケイドの社内を歩き
ながら次の手を模索してみる。
 レーテマンがどこにいるのかにもよるが、
どのみち地下である以上手はいくらでもある。
 他人の家とはいえ、さっきも言ったとうり
地下は俺たちの世界だ。どうせ非合法な取引
のために地下のあちこちに出入り口が開いて
いることだろう。
 あのひょろ眼鏡をひっつかんで逃げる程度
は俺にとっちゃ雑作もないし、もっと本音を
言えば実のところレーテマンの身柄なんての
はどうでもいいのだ。
 エスケイドにはレーテマンを殺害するつも
りはさらさらない。いや、それどころか奴の
悩みのタネである幻聴の治療すらやってくれ
ることだろう。
 俺が交渉の材料として奴の身柄を要求した
のは、今奴がいる場所にこそ今回の厄介事の
根幹があると見ているからだ。レーテマン本
人についてはいずれ釈放されるだろうから、
その時にでも奴さんの依頼の根幹について話
してやればいいだろう。
 さて、どうやって引き出してやろうか。
 おそらくは事態の根幹を指し示す{ねじま
きの魚}は俺の手の中には存在しない。そし
てジェナ・ハンたちの手の中にも。俺はその
幽霊の概略だけを掴まなきゃならないのだ。
 手元にあるのは自分でも何がはいってるの
かわからないディスク一枚。ハッタリのネタ
であり、命綱でもあるこいつでどこまでやれ
るものやら。
 
 ジェナが人通りの少ない廊下のドンつまり
にあるエレベータのスイッチに触れる。網膜
判定だかDNAチェックだかのややこしいも
のもいくつかはくっついているようだ。
 ここは世界の裏と表が切り替わる場所の一
つ。エスケイドの特別区画への入り口なのだ
ろう。
 ジェナの顔に浮かんだ疲労が濃くなる。ど
ちらにも中途半端に所属しているものにとっ
てこのゲートは倫理感を強制切り替えさせる
洗脳装置に等しい。そりゃくぐるたびに消耗
するだろう。
 もちろん、俺にとっては棲み慣れた世界へ
の帰り道にすぎない。例えこの先に懐かしの
モードレイが待っていて、そいつの切っ先を
掠めて{ねじまきの魚}のハラワタを掴みと
るなんて厄介事が待っているとしても、それ
をも含めてここからは俺の世界なのだ。
 
 エレベーターが下降をはじめる。なにが待
つかは神のみぞ知る、だがあの阿呆に知る以
外の何ができようか。物事のナシをつけるの
はいつだって人かワニだ。そして今回もワニ
が決着をつける。おそらくは。