序章「奥州路」

 おきらく忍伝ハンゾー外伝

 蝦夷もののふの戦歌編

 序章「奥州路」

 巨木はその往く手を多い、下生えは容赦な
く足をからめとる。深山はそこに住まうもの
を選ぶ。許されざるものがそこを進むのは容
易なことではない。そして人などは、極一部
の杣人を除いてはここでは最も許されない存
在であった。

 男の足取りに澱みはなかった。人の手の入
らぬ会津の深山を平地を行くかの如く歩いて
いる。
 口元にふと浮かんだ笑みは、自分よりもは
るかに巧みにこの山を抜けたであろう、相棒
を思い出してのものであった。

 あいつが隣にいないというだけで、これほ
どの不安を感じるものか。
 最初に出会ってより3年とは経っていない
はず。

 不意に、男の口元から笑みが消える。
 完全に自分の足音にそれを会わせていた追
跡者の存在を察知したのである。使い手だ。
 友の思い出に浸って、わずかに足並みを乱
したからこそ察知出来た、極わずかの気配で
ある。
 「いかんなぁ・・・。堅くなりすぎてたか。
 おきらくおきらく・・・」
 男はそう呟くと、歩調を乱しはじめた。
 簡単なことではない。
 人は道を学ぶほどに、さほどには乱れるこ
とが出来ないようになる。乱調にあろうと試
みても、ある種の法則からは抜けだし得ない。
 男もかつてはそうであった。相棒から乱調
であることを学ぶまでは。
 「これを、学んだとか言うと、あいつはま
た、堅いとか言って笑うんだよな」
 相棒に思いをはせ、その人格に自分を合わ
せてゆくうち、歩調は自然と乱れてくる。
 追跡者のほうでも、最初は戸惑ったものの
もはや気配を消すことは諦めたらしい。確実
な足取りで距離を詰めてくる。
 そして、その本体に先んじて、熱風の如き
殺気が男に迫って来た。

 「・・・・・・。」
 男は小揺るぎもせずにその殺気を透過させ
る。全く意に解していない風だ。
 そして、殺気の主の懐より白刃が煌く、と。
 「ちょっと道を聞きたいんだが、この辺の
人かね?」
 男は茫洋とそう言った。殺気の主は足に瞬
間の異常をきたしたようにその勢いを殺した。
 「キミがそういう技覚えたとは知らなかっ
たよう。ジュウベイ」
 「・・・シュウサクか。そういえば心変え
の技はお前の専売だったなぁ」
 
 男、公儀隠密ジュウベイは、つい今しがた
まで供に旅をしていたような態で、追跡者に
向かっている。
 実のところ、3年ぶりに会うとはいえ、こ
の追跡者、逸刀流のシュウサクはたしかに
ジュウベイの極親しい知り合いではあったの
だが。
 「妙なところで会うな。偶然でかたづけて
いいのか?」
 「ボクはそのほうが有り難い。キミを追っ
かける理由についちゃ、説明はされたが忘れ
ちゃった」
 「・・・ウソつけ。誰の話か知らんが初手
から聞いちゃいなかったんだろ」
 「お歳寄りの話で興味があるのは、御小遣
いをくれるって時だけだもん」
 それで、ある程度合点がいった。

 シュウサクに自分の追跡を命じたのは彼の
師匠である逸刀流総帥イットウサイであろう。
ならば、その追跡の意味も推察は出来る。
 イットウサイは将軍家剣術指南役ではある
が、公儀においてそれ以外ではない。
 ジュウベイの師匠であるセキシュウサイも
同じ役職ではあるものの、弟子筋が将軍直属
の隠密を勤めている立場上、幕府の軍事上の
よしなし事を相談されることも多い。
 イットウサイにとって、その差は腹に据え
かねることらしい。
 何を相談されて、どう答えているのか、教
えてさしあげればそんな気は霧散するだろう
に、とジュウベイは思う。
 もっとも、嫉妬の対象となっている本人か
らは
 「幕府のじゅうようじこうなんだから、言っ
ちゃダメ」
 と無表情な顔で言われている。何言ってる
んだか。イットウサイの渋面が面白いだけの
くせに。

 だが、そうだとすれば密命から休む間もな
く密命へと向かう自分の道程を何故イットウ
サイが知り得たのか。
 「上様か・・・あるいは知恵伊豆?」
 おそらくはどちらもだろう。この任務自体
が知恵伊豆こと、老中ノブツナの肝入りであ
ることはジュウベイにも想像できた。
 将軍ヨシムネは我侭とか悪辣とか言われて
いても、家臣に無理をかけたりはしない。
 あの魔装具事件から続いて今回の任務に自
分を出すことはないだろう。
 だがノブツナは情よりも実の人だ。疲労を
差し引いても最適がジュウベイだと思えば逡
巡なく命を下す。
 が、あの男なら不確定要素でしかないシュ
ウサクを事にかませるはずはない。
 情報がイットウサイの耳にはいったのは
ノブツナを出しぬいたヨシムネと、しぶしぶ
黙認したノブツナの妥協点なのだろう。
 いずれにせよ、俺の手が届かん世界の話だ
な、とジュウベイは苦笑した。

 「俺がどこへ行って、何をするのか見届け
て来い、場合によっては出しぬいて、手柄を
あげ、職を乗っ取るくらいのことはして見せ
ろ、とか言われたんじゃないのか?」
 「・・・師匠は剣術についちゃ物知りなん
だけど、馬が魚を食べないことにも未だに気
づかないんだ」
 「馬なら、主人に言われたことなら無理で
もやってのけることがあるよ。ネコでも多少
は躾ることができる・・・お前はイタチじゃ
ないか」
 二人は少年時代に偶然イタチの子供を拾っ
て育てたことがある。人なつこくはあったが
決してこちらの都合どうりに躾ることは出来
なかった。もっとも、二人は愛獣のそういう
ところは嫌いではなかったのだが。
 「だねぇ、ボクはチョロナガといっしょだ。
やりたいときにやりたいことをやる」

 一閃。
 言葉が終わらないうちにシュウサクの剣が
ジュウベイのいた空間をないだ。
 対するジュウベイの方も、その行為が当然
であるかのように無言無表情で、間合いをと
り、シュウサクが弐の太刀を繰り出す時には
すで抜刀していた。
 通常の武士なら初太刀で、並の使い手なら
初太刀を翻し、間髪をいれず突き出す弐の太
刀で仕留められる。が、実際シュウサクは
その程度の敵手を相手にしたことはない。価
値がないからだ。
 シュウサクは勝ち負けで剣を取ったことが
ない。剣を振るう時には勝敗も生死も彼の頭
からは消えうせる。ただ剣を最強最適に振る
う。それを数瞬以上受けられる相手でなけれ
ば剣は向けない。
 ジュウベイは二太刀で終わる試合なぞ面白
くはないのだろうと漠然と理解したつもりに
なっていたのだが、ある時に気がつく。剣を
振る時のシュウサクには面白いだの、楽しい
だのという感覚すらないのだということを。
 ただ最強最適に至る道を目指す。意味はな
い。剣鬼と呼んだものもいる。鬼などもっと
親しいものだと言ったものもいる。そして
ジュウベイはというと、
 「ああ、シュウサクは友達だが?」
 これも意味などはなかったのだろう。友に
たまたまそういう性質があっただけだ。
 ジュウベイにとって変わり者であるという
ことはさほどの問題ではない。人迷惑な者は
嫌うが、そうでないなら内包する性質に頓着
はしない。化け猫だろうが怪魚であろうが
いいやつはいいやつである。
 では、いきなり斬りかかってくるのは人迷
惑ではないのかというと、これは武術家同士
間合いに入ればそれは立会いの開始であると
双方に合意があるのでかまわない。

 実のところ、ジュウベイはさほどに剣術が
好きではない。剣をとる時、常に生死を思う。
彼我の命の重みを剣に感じて振るう。斬った
者の命が剣に纏わりついて重くなる。だから
不殺の剣を誓った。相棒との出会いでさらに
不死が加わった。斬られてしまえば自分の命
も誰かに纏わりつくと気づいたからだ。
 では、好きでもないことで何故無双の腕を
得たのかといえば、それは最強最適を目指す
友の剣と延々太刀合っていたからに他ならな
い。
 最強最適を受け切るのはやはり最強最適に
近しい剣でなければかなわない。シュウサク
との立会いは何よりもジュウベイを高みへと
引き上げた。剣術においてジュウベイに纏わ
りつく生死とは離れた次元においてだ。
 ゆえに、ジュウベイは何時始まるともしれ
ないシュウサクとの立会いを是とする。
 この男を斬る。この男に斬られる。
 かまわない。心にも剣にもその重みはない。
 この男となら、ただ剣を振るえる。
 結果としてどちらかが死ぬとしても。

 立会いは四半時ほどののち、ジュウベイの
剣がシュウサクの剣を飛ばして終わった。
 最強最適の太刀筋には『読みきられる』と
いう弱点がある。磨き上げても、それが3手
先なのか999手先なのかという違いがある
だけで、弱点を抱え続けることに変わりはな
い。ただ並の『達人』では999手先は読め
ないというだけだ。
 同じ程度の達人であり、その太刀筋からは
自由であるジュウベイには必ず『読み』を外
す勝機が与えられる。一度『外され』ればそ
れは『読み』の対象として次回より留意され
ることとなるが、次回は別の手で外せばよい。
 ともに精進は積んでいる。己の生き様にお
いて最上と考えられるようにだ。それで抜か
れるならば、それも仕方なしだと思う。無理
をして勝とうとも思わない。勝とうという気
持ちがこの立会いには不用だから。

 「うーん・・・強くなってない?」
 「かもしれんなぁ。この3年、結構厄介な
連中とやりあってたから」
 「そいつらとは片付いたの?」
 シュウサクは膝ほどの高さにある岩に腰を
降ろし、懐から竹皮の包みを出す。饅頭か何
かだろう。神域に至る戦いの直後に日向の隠
居のように饅頭を頬張る男である。
 ジュウベイもそこいらの似たような岩に腰
を降ろす。
 「いや、一組には逃げられて、一組は戦い
に飽きてやめちまって、最後の一組とは・・
・・これから決着をつけに行く」
 「そっか」
 案の定、シュウサクは饅頭を頬張り、ジュ
ウベイにも一つ放ってよこす。
 「ボクもいく」
 「・・・キビ団子をくれてやるのは桃太郎
の方だろう?」
 「じゃ、ついてこい」
 「・・・どこへ?」
 「えーと・・・面白いとこ」
 ・・・何も知らない人間は剣を振るうシュウ
サクが理解できないという。だが、知っている
者は、そうでない時のシュウサクのほうが遥か
に難解であることを知っている。そしてさらに
知っている者はすでに理解することなど放棄し
ているのだ。
 
 「じゃ、行くぞ。急ぐ旅なんでな」
 「うん、でも椀こ蕎麦は食べようね」

 二人の侍はあたかも延々そうであったかのよ
うに同行の旅を始めた。
 ジュウベイの心からは先程までの不安が消え、
程よい張りのようなものがその場を占めていた。

  第一章「龍の街」につづく

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